2017年9月2日土曜日

那須温泉神社(ゆぜんじんじゃ)の御神木

数日前に那須温泉神社に詣でました。
手仕事専科の打合せがありました。
那須温泉神社の縁起によりますと由緒ある神社になります。(※下段に記載)
那須温泉は、私が29歳から勤めた那須ビューホテルの地です。
小松屋石雲荘が、旧屋号ですが、時の風雲児ともいえる箭内原典が、一代にして起こした日本ビューホテルグループの旗艦ホテルです。
私たちは、日本ビューホテルのプライドを持って、ホテルマン時代を過ごしました。
当然ですが、那須温泉は、隅の隅まで知り尽くしていましたし、那須温泉神社とは、長い付き合いでした。
御婚礼の神前式の御婚礼は、神主の人見昇三さんにお世話になりました。
久々に神前にこうべを垂れてまいりましたが、鳥居や石塔や樹木を見ると時の立つのを感じます。
御神木のミズナラが、大きな樹膚を波うって聳えていました。
御神木は、樹齢推定800年になります。
人の命の儚さに私たちホテルマン(兵ども)の夢のあとと重なりました。
御神木「生きる」
このミズナラは、悠久の時を経て、
直・樹勢 旺盛にして力強く
「生きる」と命名されております。
活力、蘇生力、生命力等のパワーが
授けられる巨木として崇められています。
和名 ミズナラ(ブナ科落葉樹)
樹齢 推定800年
樹高 18m  
胸高周囲 4m
那須温泉神社の大鳥居
大和 さざれ石
この石が、国歌のさざれ石です。

君が代は、千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで。
 
愛宕神社水
本堂への道から離れて、
愛宕神社の階段がありました。
こちらの林にもミズナラの大木がありました。
御神木のミズナラが、推定800年といいますが、
同じくらいの年数が見て取れます。
ガマズミの実が成っていました。
本殿です。
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●ご由緒について
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く,奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり,貞観11年(869年)に従四位上を授けられた。後世那須余一(与一)宗隆西海に扇の的を射るに当たり,当温泉神社を祈願し名声を轟かして、那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日正一位に叙せられた。
現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。
●那須与一について
那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れました。十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)
源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦いました。
有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わりました。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されています。

『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、
凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わしました。その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しました。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。
余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。
●創建
第三十四代舒明天皇の御代、湯本より南方約八キロメートルの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯付近)に至った。
濃霧に包まれ白鹿を見失い呆然として佇んでいるとき、岩上に白髪の老翁あらわれ、
「吾は温泉の神なり、汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり,その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」
と言い終わりて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。
●ご祭神について
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
      少彦名命(すくなひこなのみこと)
       誉田別命(ほんだわけのみこと)    

 商売繁昌、家内安全、病気平癒、身体健全、縁結び 御利益があります。
また、那須与一も祈願したところから必勝祈願の御利益があります
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2017年8月17日木曜日

お地蔵さん

先日、手仕事専科の工房で、奥三島間方の工房間方の菅家藤一さんを訪ねましたが、その戻りの足で、昭和村を訪ねました。
昭和村は、道の駅のからむし工芸館をいく度かたずねているのですが、冬は、雪が深く、集落を結ぶ細い道路は、雪で行き止まりになります。除雪がされてなく、引き返すこともありました。
昭和村は、からむし(苧麻/ちょま)の里です。
幾重にも折り重なったような山道を1時間ほど走ると昭和村にでました。
途中、冷たい清水が湧きでており、頂上の見晴らしの良い峠をすぎ村落に入るとお地蔵さんが、赤いきれいな前掛けをつけて鎮座していました。
道端には、たくさんの野花が咲いており、長閑な山村の田園風景です。
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2015年11月6日金曜日

古峯神社の石碑

仕事専科のお取引工房は、会津には、たくさんあります。
会津木綿会津漆器会津本郷焼イゲタ醤油起上り小法師赤べこ、・・・・。
いつも289号線を下がり、下郷から、塔のへつりへ抜ける山道沿いに石塔が、鎮座していました。
よくみると古峯神社と彫り抜いてあります。在の講中・崇拝者の方々が、建立されたものと思います。
会津若松市内につづく大戸地区には、しっかりとした石塔があり、天狗の面が掛けてありました。
天狗は、古峯神社の御祭神の使者といいます。
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古峯神社(ふるみねじんじゃ)は、大芦川の源流に近い渓間、優美を醸す山麓に鎮まる。
御祭神に日本武尊をいただく開運・火防・海上安全・交通安全等の御神徳高い神社です。
日光山開山の祖、勝道上人がここで修行をつまれたことから「日光発祥の地」とも呼ばれております。
御祭神の使者である天狗は崇敬者にふりかかる災厄を除災するという信仰を集めており、講中・崇敬者は遠く全国より日帰り参拝、参籠宿泊参拝の方々で連日社頭は賑わいを見せます。
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2015年7月6日月曜日

甘露山妙雲寺をたずねて

塩原温泉には、有名が禅寺があります。
いつも利用している「水車(みずぐるま)」さんのすぐ隣のおてらですが、牡丹祭りが、有名です。
すぐそばの水車までは、いくども訪ねていたのですが、妙雲寺をたずねるのは、初めてでした。
ダンスのサークルメンバーとで境内を散策いたしました。
静寂な境内は、ちょうど雨曇りのしっとりとした雰囲気で、心洗われる気持ちで散策いたしました。

縁起によると-------------
下野国甘露山妙雲寺縁起解説         
この寺は小松内府重盛公の姨妙雲尼公の開基です。釈迦如来立像は栴檀香木の毘首羯摩の彫刻によるところで、小松内府の仰ぎ奉った霊像であり、朝廷の三釈尊と同じ作品で随一なりと言われています。源平合戦のはじめの寿永(一一八二)頃、平家が一ノ谷の戦いに敗北して一族ことごとく流離しました。時に源頼朝は海内に脅しを振るい権限を欲しいままにし、日本国内の幾千里、身を隠す地も無く、平氏をさがし赤子にまで罰をあたえました。しかし平氏の家臣筑後守貞能は、元より宇都宮朝綱と身内の関係があったゆえに妙雲尼公を誘って、まさに宇都宮に赴かんとしていました。平重盛の遺愛していた釈迦如来立像を置き去りにする事に忍びず、これを笈の中に入れ自ら背負って宇都宮にきました。逃れてきた事を宇都宮朝綱に相談しました。朝綱は鎌倉の源頼朝の許しを求めたが、頼朝は平貞能を恐れていました。それで宇都宮城内に留めることは成らず、はるか我が領内の藤原山中に送り住まわせました。

 その後、影をひそめて二年余り、ここに平貞能自ら「山浅くして人里の居る塩原に移すことが望ましい」と言いだし藤原山中を離れました。大きな樹木の危険な所をよじ登り、断崖を行ったり来たり登ったり、あるいは蔦かずらの茎を払いながらそばたつ壁を道として、ようやく塩原の山陰の小滝仏沢にたどり着きました。藪や草を刈り茅葺きの庵を造り釈迦如来立像を安置し、その地で、常に日本の国が良くなることを願って、平家天界の供養を施していました。大自然の中で樵をして良い薪をつくり、醴泉甘冷にして身を清め、川原の岩の割れ目から霊湯(名湯)が湧き出ている温泉に入り体を癒しました。傍ら台地(月夜川)のワラビを採り葛を堀り住んでいました。

 遠く湯源の仙境(門前)に憧れその土地に飛来しました。いささか住み慣れ、信仰の心を朝の花の紅に染め、教えの心を夜灯の輝きに照らし事も無く、幾多の年月が過ぎ妙雲尼が死去しました。その法名を以て寺に扁して妙雲寺と称号しました。その後、正和年間(一三一二から一七)、大同妙喆と云う人がいました。旧奥州最上の人で、法を佛国国師から嗣ぎ、まことに学識を納め五山の俊才でした。たまたま、日光山(高原山)中に悪龍がいました、わずかに湖水(塩原村)に触れたちまち雷を起こし、疾風を起こし高木を抜き怪石をもぎ取り、村人を常に困らせたと聞かされました。大同妙喆和尚自らこの山頂(甘露山)に登り、その湖面(妙雲寺)を見れば、釈迦如来霊像を拝し霊庵の余りにも寂寞を見て、去るのに忍びず村人に説法を施し、一喝を与えました。これにより悪龍が己から降伏して住民に災いが無くなりました。遂に錫を留められ十方の信仰により、七堂伽藍を建て尼寺を改めて甘露山妙雲寺と称しました。この所にようやくその面目を一新して法灯を樹立しました。

 宇都宮領主貞綱の庇護により潤ってきたところ、戦国動乱の時代に入り浄財も布施も無く、細々と住持や村人の篤い信仰により、甘露山妙雲寺の法灯は、三百有余年守られてきました。しかし文禄年中(一五九二から九六)世の中の乱れの災難に遭い、七堂伽藍は瓦礫の場となり、すべての甘露山妙雲寺の古文書や縁起書類は焼失し、只々、本尊釈迦如来立像のみが難を逃れました。凡そ甘露山妙雲寺創建より寛文六年(一六六六)に至るまで、計るに四百八十年間、古老の口伝によつて大略を記しました。以上の通り、宇都宮城主奥平忠昌様に広く理解をいただき、そのあれた甘露山妙雲寺の欠けたところを補修して頂きました。寛文六年二月、甘露山妙雲寺住持紀泰首座の求めによつて、神護山興禅寺に於いて関林和尚が書き表しました。
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2014年12月25日木曜日

雲厳寺の境内

雲巌寺(うんがんじ)は、栃木県大田原市雲岩寺にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は東山。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。
開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。
雲巌寺は大治年間(1126年~1131年)に叟元和尚によって開基され、1283年(弘安6年)に時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと仏国国師によって開山されたといわれる。その後1578年(天正6年)に無住妙徳禅師が住職となった折に宗派を臨済宗妙心寺派とした。
建築物は1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の戦火で焼失するも数年後には再建され、またその後1847年(弘化4年)に火災に遭うも1849年(嘉永2年)に再建されている。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
雲巌寺はまた、松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄った寺院としても知られ、寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑がある。
歌碑には
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)
木啄も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)
の句が刻まれている。
なお、この歌碑は、1803年(享和3年)に建てられたものを、1879年(明治12年)に再建したものと謂われる。
聖福寺(福岡県福岡市博多区)、永平寺(福井県吉田郡永平寺町)、興国寺(和歌山県日高郡由良町)とともに禅宗の四大道場とされる。
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今日は、友人を伴い旧黒羽町にある臨済宗の雲厳寺を訪ねました。
その佇まいは、大関家の菩提寺「大雄寺」とは、異なりより厳しい空気を漂わせています。
芭蕉の句碑「木啄も庵は、やぶらず夏木立」が、ある所でも知られています。
大きな庭石が、力強くはいちされて、さぞかし名のある庭師の創られたものと思います。
随分と昔からですが、バス停に「おれが危ない」の看板があります。
それを見ると「自分のこと」と思ってしまいます。
手仕事専科では、雲厳寺との直接のかかわりは、ありませんが、その日本の文化を訪ねる際には、避けては通れない仏教の門のように感じます。
仏堂:1912年(大正元年)、
築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、
1922年(大正11年)に竣工した。
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2014年1月5日日曜日

観音沼の嶽観音と大松川のお不動さま2014.01.04

きょうは、観音沼と道中の「お不動さま」を訪ねました。
なんど伺ったかは、わからないほどに観音沼は、訪れています。
会津への道中です。
手仕事専科でのご褒美です。
四季折々の観音沼は、美しい姿を見せてくれています。
また、289号をさらに進むといつも「お不動さま」直売所があって、気になっていました。
縁起は、わかりませんが、雪中のお堂を写真に撮ってきました。
ご覧ください。

嶽観音の祀られている神社
坂上田村麻呂の創建といいます。















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